
男色・衆道とは?日本が同性愛に寛容だった千年の歴史を解説
「昔の日本は、同性愛に厳しかったはず」——そう思っていませんか。実は、戦国大名・武田信玄が若い家臣に恋文を送り、井原西鶴が男色の物語集を堂々と出版していた時代が、この国には確かにありました。
今回たどるのは、千年をこえる男色(なんしょく)の歴史。なぜ近代にタブー化したのか、現代のLGBTQ・BL文化にどうつながるのかを、扇情的にではなく文化史としてやさしく整理します。
男色・衆道とは?「恥」ではなかった千年の性文化

男色とは、男性間の性愛を指す言葉です。とりわけ武士社会で発展した形を「衆道」と呼びます。起源には、平安時代の僧・空海が唐から持ち帰ったという有名な俗説がありますが、これは伝説に近く、実際にはもっと古くからあったと考えられています。
少なくとも平安の貴族社会には、男色をめぐる記録が残っており、日本の男色には千年をこえる長い歴史があるのです。
重要なのは、それが「隠すべき恥」ではなかったという点です。文学や日記、絵画にも堂々と描かれ、社会の中に自然に溶け込んでいました。現代の私たちが抱いているかもしれない「昔の日本は同性愛に厳しかったはず」というイメージは、実は歴史の事実とは大きく異なるのです。
視野を世界に広げれば、古代ギリシャをはじめ、男性同士の愛が文化に深く組み込まれた社会は数多くあります。日本もまた、そうした社会の一つでした。
男色は、日本だけの奇習でも、特殊な逸脱でもなく、人類が古くから持っていた、性の多様なあり方の一つだった——そういうことになります。この視点を持つだけで、歴史の——そして今の——見え方はぐっと広がるはずです。

では、この長い歴史は、どんな場所で受け継がれてきたのでしょうか。
お寺と稚児(ちご)|「女人禁制」が育て、力の偏りも生んだ

男色が受け継がれた場の一つが、お寺です。女人禁制だった寺院では、僧侶と、稚児(ちご)と呼ばれる少年との関係が知られていました。
稚児は、寺で行儀や学問を学ぶ少年。僧との情愛を描いた「稚児物語」という文学ジャンルまで生まれています。宗教的な空間の中で、男色は独特の美意識をまとって語られました。
もっとも、すべての稚児や僧侶が性愛関係にあったわけではありません。そして稚児は年若い少年でもあり、教育や衣食住を与える年長者と、それに依存する少年とのあいだには、大きな力関係の偏りがありました。
現代の視点では見過ごせない問題もあります。美しく語られる一方で、その現実からも目をそらさないことが大切です。稚児をめぐる物語は、信仰と情愛、そして権力の非対称が入りまじった、複雑な世界でもありました。ひとつの言葉で割り切れないところにこそ、歴史のほんとうの面白さと難しさがあります。

寺で育まれた男色は、やがて別の世界で「道」にまで磨かれていきます。
武士の衆道|恋愛が「忠義の道」だった

男色がもっとも洗練されたのは、意外にも武士の世界です。強く、厳格。そのイメージの中心で、男色は「衆道」という一つの道として磨かれました。念者と若衆が結びつき、単なる関係を超えて、忠義・信頼・精神的なつながりを重んじる。まるで主従の絆のように語られたのです。
これを象徴するのが、戦国大名・武田信玄(晴信)が書いたとされ、東京大学史料編纂所にも画像が公開されている一通の文書です。そこには、別の若者との関係を否定し、偽りなら神仏の罰を受けると誓う言葉がつづられています。
じつは形式としては、恋文というより神仏に潔白を誓う「起請文(きしょうもん)」に近いもので、「恋文」は通俗的な呼び名です(宛名の人物についても諸説あります)。
とはいえ、天下に名をとどろかせた戦国武将が、若い相手に誓いを立てていた——そう考えると、歴史がぐっと人間くさく、身近に感じられます。衆道は、命をかけて戦う武士たちの、深い情のかたちでもあったのです。

衆道を語るとき、どうしても外せない言葉があります。「若衆」です。
「若衆(わかしゅう)」とは何か|前髪と、卒業のある関係

衆道(しゅどう)を理解するうえで欠かせないのが、「若衆(わかしゅう)」という存在です。若衆とは、まだ前髪を残した、少年から青年にかけての男性を指しました。当時、男性は成人すると「元服(げんぷく)」で前髪を剃り落とします。
若衆でいられるのは、人生のある一時期だけ。
これは、衆道の関係に「年齢による役割」があったことを意味します。若い頃は念者に愛される若衆であり、成長すればやがて自分が念者の側に回る——そうした循環がありました。
対等な二人の恋愛を前提とする、現代の同性愛のイメージとは、少し違う仕組みだったのです。だからこそ、歴史をそのまま現代に重ねるのではなく、当時の枠組みの中で理解することが大切になります。
過去の寛容さに学びつつ、単純化はしない——それが、歴史を誠実に扱うということです。
もう一つ大切なのは、若衆は「同性愛者の少年」ではなかったということです。若衆であるかどうかは、前髪や髪型、服装、元服の有無といった、年齢と装いによる社会的な区分でした。
浮世絵には、若衆が年上の男性に言い寄られる場面だけでなく、遊女と描かれる場面もあります。若衆は男女双方から欲望の対象になり得たのであり、若衆でいること自体が、特定の性行為や「誰を好きになる人間か」という自己認識を意味したわけではありません。
研究上は「第三のジェンダー」と呼ばれることもありますが、これはあくまで現代の分析のための言葉で、若衆が現代のノンバイナリーやトランスジェンダーと同じ自己認識を持っていた、という意味ではありません。

武士の世界で洗練された男色は、町人の暮らしにも広がっていきました。
江戸の男色文化|男色は堂々と「本になる」ものだった
江戸時代になると、男色は町人文化の中でもいきいきと花開きます。浮世草子の名手・井原西鶴は、1687年に刊行した全8巻の『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』で、前半に武士の衆道、後半に歌舞伎界の男色を、ユーモアと情感たっぷりに描きました。
男色が、堂々と本になり、広く読まれる文化だったことがわかります。ただし、これはあくまで理想化や誇張、笑いや悲劇を含む文学作品です。「西鶴が書いたから、当時の日本人みんなが男色に寛容だった」と読むことはできません。
春画と同じく、現実と空想がまじった文化資料として読み解くのが正確です。
興味深いのは、男色が女色(女性との恋愛)と対立するものではなかったことです。両方を楽しむことが、ごく自然だと考えられていました。
また、前髪を残した若い男性が演じる「若衆歌舞伎」は絶大な人気を集め、その役者が男色の対象にもなりました。
歌舞伎の歴史をたどると、1629年に女性による女歌舞伎が禁じられたあと若衆歌舞伎が盛んになり、江戸では1652年に禁止、その後は前髪を剃った成人男性による野郎歌舞伎へ移ります。
もっとも、その規制は「同性愛を嫌ったから」だけではありません。役者をめぐる売買春や、客同士の争い、治安・風紀の問題が関わっていました。舞台の華やかさと男色は切っても切れない関係にあり、同時に、そこには力関係や商いの現実もあったのです。

舞台の華やかさの隣には、もう少し生々しい商いの場もありました。
陰間茶屋(かげまぢゃや)|ここにも遊郭と同じ「光と影」があった

江戸には、「陰間茶屋(かげまぢゃや)」という店もありました。陰間=男娼、男性の遊び相手を務めた者たちです。歌舞伎の若い役者とも、深く結びついていました。華やかな行列で街を沸かせた花魁道中のような見せ場はありませんでしたが、花魁や遊女に男性版があった、と考えるとイメージしやすいかもしれません。
そして、ここにも同じ「光と影」があります。陰間には年若い少年も多く、遊女と同じように、売られ、搾取される立場でもありました。
華やかな文化として語られる一方で、そこには自由を持たない子どもたちの現実があった。男色の歴史を、ただ「おおらかで良かった」と美化するのではなく、その両面を見ておくことが、誠実な向き合い方だと考えます。

これほど根づいていた文化が、では、いつ「異常」に変わったのでしょう。
なぜタブーになったのか|明治と「病理化」
これほど寛容だった男色が、なぜ今は「特別なこと」のように扱われるのでしょうか。大きな転機は、やはり明治時代です。西洋のキリスト教的な性道徳と、同性愛を”病気”とみなす近代医学が輸入されると、男色は一気に「異常」「恥ずべきもの」とされ、歴史の表舞台から隠されていきました。
この流れは、春画がタブー化した歴史と、まったく同じ構造です。かつては公然と語られた男性同士の関係が、近代になってタブーへと変わっていきました。
ただし、「西洋が来て一気にすべて禁止した」という単純な話でもありません。1873年の改定律例(かいていりつれい)には男性同士の性行為を罰する「鶏姦罪(けいかんざい)」が置かれましたが、1882年施行の旧刑法では引き継がれず、わずか数年で削除されました。
しかもその制定には中国(清)の法体系が、削除には合意した私的な性行為を罰しないフランス法の考え方が影響したとされます。「厳しい西洋と寛容な日本」という単純な対立では説明できないのです。
また、男色が明治維新と同時に一晩で消えたわけでもありません。明治期の男子学生のあいだには、男性同士の親密な関係を肯定する「硬派(こうは)」の文化も残りました。強くなっていったのは、学校・軍隊・近代家族・医学の言葉を通じて、「成人男性は女性を愛し結婚して家庭を作るもの」という規範のほうでした。
| 比較項目 | 中国(清) | 西洋(主にフランス) | 日本(明治期) |
|---|---|---|---|
| 同性愛の法的な扱い | 刑法で処罰対象(大清律例) | 合意の私的行為は不介入(フランス法) | 清の法で処罰後、フランス法に倣い除外 |
| 同性愛への社会的視線 | 「家」の存続を脅かす反道徳的行為 | 宗教的な罪悪、または医学的な「病理」 | 法律ではなく医学・教育を通じて「異常」と規定 |
| 家族と性の規範 | 子孫繁栄と孝行が絶対の至上命題 | 異性愛に基づく一夫一婦制(近代家族) | 儒教的家長制と西洋的家族のハイブリッド(家制度) |
| 秩序を保つ主な手段 | 厳格な刑罰(法律)による処罰 | 近代医学(病理化)と宗教的規範 | 学校・軍隊・民法(家制度)による規範のすり込み |
※全体像をつかむための簡略化した比較です。それぞれの国・地域の内部にも時期差や地域差があります。

そして封じられていた流れが、いま、もう一度動きはじめています。
現在、そして未来へ|「昔の寛容さ」が、いちばん新しい

そして今、封じられていた大きな流れが、もう一度動いています。世界的なLGBTQの権利運動、日本各地に広がる同性パートナーシップ制度、そして日本発の巨大な文化になったボーイズラブ(BL)の人気。
この国には、男性同士の愛が文学や美術のなかで堂々と語られた時代が、確かにありました。その事実を知ることは、いま声を上げにくい人の支えにもなります。
ただし、いくつか気をつけたいこともあります。前近代の男色は、年齢・身分・役割によって組み立てられた関係で、今の対等な同性パートナーシップや「性的指向」という考え方とは異なるものでした。
そしてBLもまた、主に1970年代以降の少女漫画や女性の創作文化から生まれた現代の別の潮流で、江戸の衆道がそのまま復活したわけでも、現実に生きるゲイ・バイセクシュアルの人々の経験そのものでもありません。
歴史は励ましになりますが、「昔に戻る」話ではなく、過去を踏まえて新しい平等をつくる話だと捉えるほうが正確です。

現状も、正確に見ておきましょう。
渋谷区は2015年11月からパートナーシップ証明を交付していますが、区自身が「法律上の婚姻とは異なる制度」と明記しています。
2023年に施行された法律も、性的指向やジェンダーの多様性への「理解を増進する」ためのもので、婚姻制度を変えるものではありません。同性婚を認めない現行制度をめぐっては全国で6件の裁判が起こされ、高裁の判断は「違憲・違憲状態」が5件、「合憲」が1件と分かれ、最高裁による統一判断が待たれています(2026年時点)。
つまり同性婚は、遠い未来の夢ではなく、いままさに議論されている、現在進行中の課題なのです。その先の未来には、性のあり方がもっと自由に、当たり前に語られる社会が待っているのかもしれません。
かつての日本が、性のあり方に今よりずっと多くの余白を持っていたことは、未来を考えるうえでの大きなヒントになります。村の縁結びだった夜這い、将軍家の世継ぎを担った大奥、裸への感覚を扱う混浴の歴史、学校が性を教えるまでの性教育の歴史、そして戦後の赤線と新地に残る言葉——どれも、同じ「余白」の話につながっています。
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男色・衆道のよくある質問(FAQ)
男色(なんしょく)とは何ですか?
男性同士の性愛を指す言葉です。かつての日本では武士・僧侶・町人に広く見られ、特別に異常なこととは考えられていませんでした。武士社会で発展した形を「衆道」と呼びます。
衆道とは何ですか?
武士社会で磨かれた男色のあり方です。年上の「念者」と年下の「若衆」が結びつき、単なる関係を超えて、忠義や信頼、精神的なつながりを重んじる「道」とされました。
男色はいつ頃から日本にあったのですか?
起源には空海が唐から持ち帰ったという俗説がありますが伝説に近く、実際はもっと古くからと考えられています。平安の貴族社会にも記録があり、千年をこえる歴史があります。
陰間茶屋とは何ですか?
男娼(陰間)を置いた江戸の茶屋で、歌舞伎の若い役者とも結びついていました。ただし陰間には年若い少年も多く、遊女と同じく売られ搾取される立場でもありました。
なぜ男色はタブー視されるようになったのですか?
主に明治以降です。西洋のキリスト教的道徳と、同性愛を病気とみなす近代医学が輸入され、「異常」とされました。春画のタブー化と同じく、近代がつくった見方です。
▶ シリーズの動画版が始まりました(40分20秒)
第1話「花魁と遊郭の世界」。ソクルとテクルの会話に、当時の情景イラストと図解を重ねてたどります。
夢野アートについて:「快感を科学する」をテーマに、性の悩みや心地よさを、科学と実体験の両面からやさしく伝えるメディアです。この記事は元風俗嬢の夢野カナエの視点を交えつつ、歴史については公開されている史料・研究をもとに構成しています。カナエの語りは共感のためのものであり、歴史学の学術的見解ではありません。
参考文献と史料
江戸人の性(氏家幹人・2013・草思社)
男色を含む江戸期の性風俗を史料で解説する通史的専門書 — 国立国会図書館サーチ
井原西鶴の浮世草子(国立国会図書館デジタルコレクション)
『男色大鑑』(1687)をはじめとする西鶴作品は、江戸期の男色文化を伝える一次史料
衆道・稚児・陰間茶屋・武田信玄の書状(東京大学史料編纂所に画像公開・形式は起請文に近い)に関する記述は、日本史・文学史の研究で広く報告されている内容をもとに、諸説がある前提で構成しています。明治の鶏姦罪(1873年改定律例→1882年旧刑法で削除)、渋谷区パートナーシップ(2015年〜・婚姻とは別制度)、2023年の理解増進法、同性婚訴訟の各判断、BL研究などの現代の論点も、公開情報にもとづき範囲を示して記述しています。
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